【シリーズ「一枚の自分史」】

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戦後70年を迎える2015年。いま、戦争はどのように語られ、そして語り継がれてゆくのでしょうか。
このシリーズでは、一枚の写真とともに語り継がれる戦争の記憶を紹介してまいります。(なお、文章表現には当時の言い回しや、語り手ご本人の語彙を出来るだけ尊重しております。あらかじめご了承ください)

NO.04
「幾多の襲撃を越えて ~祖父の遺した自分史より~」

東京都 今里勝信さん(66)

祖父信孝は、自分史を書き遺し、三十九年前に七十六歳で他界しました。  
その中には一九三二年から一九四二年まで九年余を朝鮮と支那で過ごしたと書き記しています。満州国建国から真珠湾攻撃の直後までにあたります。
その時信孝三二歳でした。大手建築会社の下請けとして、鉄筋工事部分を請け負うのが祖父の仕事でした。まずは朝鮮京城府で伝染病の病院を手掛けたのです が、現地には鉄筋工がいなかったため技術指導から始めたと述べています。朝鮮で病院二棟を完成させた後、育成した三名の朝鮮人鉄筋工を連れて、満州奉天に 向かったのは翌昭和八年でした。
奉天到着とともに、奉天飛行場の建設請負の話を決め、職人の宿所と自分たち夫婦のアパート手配など全てを一週間で終えたと言います。
極寒の地奉天では十月から五月中旬まで屋外での建設作業ができません。その間に現地人の教育を行いながら、職人の数を増やし、満州鉄道(満鉄)消費組合、兵器射撃場、重油地下倉庫などを次々と請負いました。
新京寛城子放送局を皮切りに、奉天のみならず全満州の鉄筋工事を請負うまでになったと言います。吉林関東軍官舎建設時には、満鉄で移動する機会が増えました。
盧溝橋事件で始まる日中戦争直前の昭和十年のことでした。祖父の乗る列車が高粱畑にさしかかった時、その間から多数の馬賊が突如現れ、一斉射撃をして来たそうです。
既にこのような事が繰り返し起きていることを知っていた祖父は、支那服を着て乗り込んでいました。馬賊が列車を止め、乗り込んできて多くの日本人を殺害したにもかかわらず、支那人に紛れて助かりました。
その後一時間半ほどしてやってきた日本軍一個中隊と撃ち合いになり、馬賊は二十人の死者を残し逃げ去りました。日本軍七名と数十人を超える日本人乗客が亡くなりました。
その後満州国総理大臣官邸、北京主君苑などの工事を請負ったようです。しかし昭和十二年の日中戦争突入とともに、鉄筋工事が無くなり、従業員を解雇し事業は終了となります。
鉄筋事業をたたんだ昭和十三年七月、北京で食料品と雑貨の卸を営む友人の紹介で製鉄所の食堂経営者へと転身します。場所は北京から十里ほど離れた、石景山にある日本軍が占領した製鉄所。日本から八幡製鉄所の従業員が来て製鉄を行っていました。
製鉄所警備のために日本軍二個小隊(数十名)が常駐し、祖父夫婦の宿舎には六名の歩哨(見張り役)がついたとあります。写真はその時期に支那人のコックと一緒に写したものです。
昭和十四年激化する両軍の争いのもと、製鉄所もたびたび襲撃を受け、祖父も銃を持つことさえあったようです。赤軍の力が増し、日々激化する戦闘のなかで製 鉄作業継続は不可能となり、そこで人伝えで日本人が居ると聞いた蒙古大同炭坑に行くこととなりました。炭坑では初めてながら煉瓦造りの宿舎建設の一切を請 負ったようです。ところがここにも赤軍の攻撃の手が伸び、同年八月、先ごろ日本軍が占領した五台県に移り、軍属として破壊された道路や橋梁の補修などの仕 事をしたそうです。その当時行動を共にしたのは日本陸軍一個師団で、隊長は京都出身の中将であったと記されています。このほか部隊の赤軍討伐や、襲撃で銃 弾が目の前をかすめた話、村での殺戮、略奪、戦利品などのことも記載があります。
昭和十六年三月、軍より呼び出しがあり、民間人の保護は最早できなくなったと、内地への帰国を促されました。翌朝軍のトラックで大原まで送ってもらい、鉄道で北京駅に到着し電燈を見たときは、心底ホッとしたと述べています。
「大陸での九年間、朝鮮人、支那人、蒙古人と異なる民族の性格の違いは言葉で言い表す事の出来ない苦労を生んだ」とこの章を振り返っています。
このように大陸での時を過ごし、無事に内地に帰国できたので、今のわたしが存在するのです。
孫である私には海外生活について一言も、またこのようなものを書き綴っていたことすら語らず、遺品整理で見つけた自分史と一枚の写真を遺したからこそ、家族の想い出としていつまでも心に住み続けることができるのです。

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