【シリーズ「一枚の自分史」】


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戦後70年を迎える2015年。いま、戦争はどのように語られ、そして語り継がれてゆくのでしょうか。
このシリーズでは、一枚の写真とともに語り継がれる戦争の記憶を紹介してまいります。

NO.02
「戦地からの便り ~二五四通の思い~」

東京都 鈴木喜美子さん(82)

私の実家には二五四通の葉書が残されています。
それらは父、川嶋芳夫が戦地から私たち家族へ宛てたものです。
山形県の寒河江市で教員をしていた父に召集令状が届いたのは、昭和十六年九月のことでした。私は小学三年生、妹はまだ一年生でした。世の中で何が起こっているのか、父がどこへ行くのかもわからず、ただ見送ったのでした。
父は陸軍兵として、ボルネオ、タイ、スマトラと南方派遣の最前線で物資を運ぶ部隊に所属していました。几帳面な性格で教員でもあったことから、記録係のような仕事を任されていたようです。
たびたび戦地から送られてくる父からの便りを、母や祖父母らはいつも心待ちにしておりました。当時の郵便はすべて軍事郵便ですから、内容には必ず検閲が入 ります。戦況などは機密情報にあたるため書くことは出来ません。日付も重要な情報になるため、書いてはいけないのです。また、少しでも相応しくない表現が あれば墨で塗りつぶされました。
そうした環境下で、父からの葉書はいつも私たち家族への気遣いの言葉から始まり、自身が元気であることの報告と続きました。そして、現地に暮らす人々の生活ぶりや、四季折々の風景が、時には色鉛筆などの絵を交えて事細かく描かれていました。
たとえば、こんな具合です。
「ゴムの木です。こんな葉が三枚づつかたまってついてゐます。すぐ固まり長くのびるやうになります」「こんな姿をしたマレー人のおばさんが時々町を通りま す。かさは赤や青でいろどってあります」「こちらのは象が居てのそりのそりと歩いて居ます。人を乗せたり材木を運んだりします」「水浴のことをこちらでは マンデートいひます。土人は毎日朝昼晩と三回マンデーをします。男も女も大人も子供も川や水道のところでジャブジャブ、ザアとやります」
このように父は、私たち子供へ向けて、丁寧で優しい言葉で書いていました。
ところが、戦況が悪化した昭和二十年三月に届いた葉書を最後に、父からの音信が途絶えました。葉書は「元気ですか。私もうんと丈夫です」から始まり、「で は丈夫で寒さに負けませぬやう、さやうなら」で終わっていました。南方諸島では玉砕が相次ぎ、本土での空襲も激しくなる一方でした。私も勤労奉仕として、 田起こしなどに従事しました。
戦争が終わっても、父からの連絡は一向にありません。我が家の中に暗澹たる空気が広がりました。しかし、たとえ父がいなくても戦後の荒波を生き抜いていかなくてはなりません。
ところが忘れもしない翌二十一年二月、一通の葉書が届いたのです。そこには「私事お陰様にて無事消光いたしおります。御安心下さい」と書かれていました。父は戦後米軍によってシンガポールの地に抑留されながらも、生き延びていたのでした。
父が帰国したのは昭和二十二年六月のことでした。役場から連絡があり、バスに乗って寒河江駅まで迎えにいきました。駅のホームから父の姿が見えました。し かし、父と別れてから七年の歳月が過ぎ、小学三年生だった私は中学三年生になっていたのです。今にして思えば、父親との距離感が分からずに戸惑っていたの でしょう。ドラマのように抱きあって喜ぶようなことはできるはずもありませんでした。
戦後から四十年の節目に、父は喜寿を迎えました。そこで、この二五四枚の葉書を一冊の本にまとめることにしたのです。出版することについて、初め父は賛成 ではありませんでした。若くして国のために命を落としていった戦友たちに申し訳ないという気持ちでいっぱいだったのでしょう。しかし私の夫、鈴木の強い勧 めがあって、出版に踏み切ったのでした。
父がこれほどの枚数の葉書を送り続けられたのは、父の戦場での役割が影響していたのです。記録係として従軍していたため、鉛筆も用紙も常に携帯できる立場 だったからです。だからこそ、父の残した葉書の数々は次の世代へ伝えていく意義があるのだと、父も次第に使命感を持ったのだと思います。出来上がった本を 嬉しそうに手に取っていたのを覚えています。
私は父と同じ教員の道を歩みました。今、父の晩年の年齢に近くなって、改めて父の思いがわかるようになりました。これからもこの葉書とともに、父の生きた日々と向き合っていきたいと考えています。


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