鹿児島で出会ったイギリス出身の青年

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先日、鹿児島で出会ったイギリス出身の青年(写真右)に、自分史について質問された。
「自分史というのは、それが正しくなくても構わないデスカ?」と。
彼は大学で歴史学を学んできたという。学問としての歴史は、その話が史実として裏付けられるかどうか検証することが大切だというのだ。しかし、自分史とい うものは、書く人の主観であり、その話が事実がどうかはわからない。本人の誇張もあれば、記憶違いもあるかもしれない。それを書籍という形にして残してし まっても良いのか。というのだ。

こういう踏み込んだ質問は、なんだか嬉しい。
で、私(写真左)はやや巻き舌気味にこう答えた。
「自分史にとって、書き手の話が客観的に正しいかどうかは最優先事項ではないのデスヨ。むしろ一冊の自分史は、その人の主観であって構わない。でも、その主観である自分史を、100人、1000人、10000人という大勢の人たちが書き残せばどうなるデスカ?」
すると、聡明な彼はすかさず答えた。
「Oh、ビッグデータになりますネ!」

多くの人が自分史を書き残すことで、複雑で曖昧な「時代」というものに多様な角度から光を当てて、これを立体的に浮き上がらせられる。だから、自分史のひ とつひとつは、その人の個人的な体験事例と解釈なのであって、主観であって構わない。時にその主観ぷりが面白くもあるのが自分史の持ち味だろう。無論、だ からといって自分史は事実に反しても構わないとか、デタラメでもいい、などと曲解はしないでほしい。歴史とは、学者や歴史家、著述のプロだけが語り継ぐも のではなく、誰もが自分の体験談を書き残すことで参加できるものなのだ。
私たちの持つペンにだって、十分に意味はあるのだ。

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