【ハンセン病を語り継ぐもの】


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「ハンセン病問題を語り継ぐもの」というセミナーに参加しました。
ハンセン病は病気そのものよりも差別や偏見の方がつらいと言われています。そして、ハンセン病は「分断する病」であるとも。それは家族との分断、地域との分断、そして自分自身のアイデンティティーとの分断さえ引き起こすのです。
中国から来日したハンセン病回復者の欧鏡釗さんのお話を伺うことができました。同時通訳は中国NGO「家ーJIA」の菅野真子さん。

(以下、欧さんの講演を割りとリアルタイムにタイプしたものです)

私は1956年にハンセン病を発症した。隔離された村の村人は何人も自殺していった。
政府が支給するお金は偽物だった。それは村だけで使える通貨であり、外の世界とつながることを封じたのだ。だから自分で農業をするしかなかった。孤独だった。悲観的で、傷ついていた。
2001年3月。突然、20人の日本人と韓国人の若者がやってきて、10日間一緒に住んだ。それは私にとって初めての経験で、何が起きたのか信じることができなかった。なぜなら、私たちにとって、日本人といえば戦争という思い込みがあるからだ。
しかも、何十年も誰も訪れなかった村でのこと。ところが、その10日間は、村がかつてないほどとても盛り上がったのだ。普段は村に来ない地元の子供達まで 村に見に来たほど。だから別れの時が本当につらかった。お互いに涙を流して、心を通わせあった。もう2度とこんなことはないだろうと思った。彼らが帰り、 村には静けさがもどった。村人はしばらくものも食べられないほど悲しみに陥った。話題はいつも楽しかった10日間のことばかり。私たちはどうして日本人が してくれたことを中国人はしてくれないのかと疑問に思った。
しかし、翌年また日本と韓国の若者が村を訪れた。ソーラーパネルの設置など、いろいろなことをしてくれた。でも前回とひとつ違ったのは、その中に原田燎太郎という青年がいたことだ。それはなぜか。
ある日の夜、彼と酒を飲んだ。その時、互いに言葉が通じないが、長い時間筆談をした。たいした内容ではなかったが、互いの関係は深まった。
その時から、わたしたちは日本人に強い感情を持つようになった。また来て欲しいと強く願うようになったのだ。
もう一つの出来事。2003年4月。
原田が大学卒業後、中国へ来てくれた。彼の目的は、中国の学生にハンセン病のことを知ってもらうことだった。それを聞いて、希望が湧いた。その時から、自分の経験を学生に伝えるようになった。次第に私は強くなってきた。社会への扉を原田が開いてくれたのだ。
自分がその一歩を踏み出さなければいつまでも自分も苦しいままだった。原田と大学へ行き、大勢の前で話すようになった。はじめは勇気が必要だった。しか し、学生たちが好意的で、親しみを持ってくれた。それが何よりうれしかった。さらに、気持ちが大きくなり、講演が上手になった。
その年の6月には学生たちが村へ来てくれた。8月にはキャンプを張って、トイレを作ってくれた。私は中国人は村へ来ないだろうと思っていたが、数ヶ月後に 来てくれるとは思ってもみなかった。しかし、地元の人々は村へ来てくれなかった。地元の子供たちは村の近くへ来るときは息をしないようにして通り過ぎる有 様だった。そこで、小学生から差別をなくそうと思いついた。
私にはモットーがある。人に大切にされたければ、まずは自分から大切にしなくてはいけない。
子供を良くすれば自分にも良くしてくれる。子供は私たちを親のように慕ってくれる。夏休み、冬休みになると、村に泊まってくれるようになった。それを家に帰って、親に報告するようになり、親が村へお礼のものを持って訪れるようになった。成功だった。
この成功は原田と学生たちのお陰だ。
自分の強さは、原田が来てくれたことからはじまった。
この機会に原田、学生たち、財団そして、菅野真子に礼を言いたい。
(終わり)

そして、主催者の西尾雄志さんはこのようにまとめられました。
「ハンセン病が医学上制圧されたとしても、差別の歴史が消えたわけではない。我々の世代は、ハンセン病の体験者の肉声を聴ける人類最後の世代かもしれない。」

ハンセン病の歴史から学ぶことは、私たちにとって永遠のテーマでもあるのです。
(追記)
原田燎太郎さんの活動する「家-JIA-」では、活動を支えてくれるサポーターを募集しています。詳しくはこちらまで。
http://jiaworkcamp.org/jp/month.aspx


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